藤田洋三について


略歴


藤田洋三(ふじたようぞう)
1950年大分県生まれ。別府市在住。写真家。
幼い噴より職人仕事に興味を持ち、1976年より大分を拠点に、全国の鰻絵、土壁、石灰窯、藁塚、石積み等の撮影と取材を続けている。

著書:~
『近代建築史ゲニウス・ロキ』(編著、産研出版、1993)
『消え行く左官職人の技・鍾絵』(小学館、1997)
『大分の昆虫』(私家版1994)
『小屋の力』(共著、ワールドフォトプレス、2001)
『鍾絵放浪記』(2001)
『藁塚放浪記』 (2005)
『世間遺産放浪記』 (2007)
『世間遺産放浪記俗世間編』(2012、以上石風社)
『浜脇・HAMAWAKI』 (2013 、SABU 出版)など。


雑感


僕の故郷、別府市には明治維新のあと、しばらくして港湾や鉄道が登場し、大正時代には国の巨費で水道施設や大学の研究施設がつくられた。

山の手地区には、中国大陸に最も近い温泉っきの避寒別荘地として陸海軍、さらに旧満洲国の病院や保養所、そしてこれらに付随した財閥や成金の別荘や施設が競い合うように建てられていった。

その後幾多の戦争を経て戦後を迎えた別府だが、空爆を逃れたこれらの設備に注目した連合軍は、敗戦直後に別府に進,駐。基地建設の軍需景気と大陸からの軍人や民間人の引き揚げ組も加わって、1960年代あたりまでの別府は、喧喋と人の熱気でむせ返る、かつての香港のようなエネルギッシュな街だった。

青線、失業対策事務所などもすぐ身近にあった。
そんな街に育った僕は、少年のころから好奇心旺盛で、バケツの底でごそごそ動き回るカニのような“多動性"の子どもだった。
近所の新首屋で馬の婦長打ちを眺めたり、庭師や大工など、いろんな職人さんの家を巡っては、日がな一日、飽きることがなかった。

特に通いつめたのが「左官さん」の家だった。僕が小学生のころ、身近に何人かの左官さんが住んでいた。
そのひとりは房前さんという左官さんで、房前さんは四六時中奥さんとケンカしていたが、機嫌がいいときにはセメントや涙訟をこねる手ほどきをしてくれたり、 ウグイスやメジロ捕りに連れていってくれた。
山に入るとウグイスのわなに使う虫探しや、赤土で手を洗う方法を伝授してくれる、野遊びの師匠でもあった。
僕の好奇心はその後もとどまることを知らず、中学にもなると、貸本屋や古本屋を巡るようになった。

印章屋を営んでいた父からも影響を受けた。父の仕事場には、旧軍人や釣師、郷土史家、果ては詐欺師に至るまで、「印鑑」を必要とするありとあらゆる職種の大人たちが毎日のように訪れた。
そうした大人たちの話を盗み聞くのは学校の教室よりもはるかに面白かった。
父はよく、「日本人は生まれてから死ぬまでハンコがいる。みんな御名御璽一つで戦場に向かったんや」と、口癖のように話していた。

父は写真を趣味にしていた。父が宝物にしていた、「木村伊兵衛」なる人のサインが写真家のものだと知ったのは、高校に上がってからだった。

そんな父に感化されたのか、18歳のころ、写真家を夢見るようになった。
ミュージカル「へアー」のファッションに身を包んだ若者が街を閥歩し、70年安保と沖縄返還も目前に迫っていた。

街では、石を投げるとイラストレーターかカメラマンの卵に当たるといわれた時代だった。
そんな時代の熱にいざなわれるまま上京し、東京綜合写真専門学校へと進んだ。ロパート・フランクの『アメリカ人』やウィリアム・クラインの『ニューヨーク』など、社会派の仕事にJ憧れた。
単に美をめざすだけでも、あるいは社会的なメッセージを伝達するためだけのものでもない、個人的なまなざしをあたかも散文詩を綴るように織り上げ、た写真家たちの世界観に強く惹かれた。
だが現実はそんなに甘いものではなかった。学生運動の煽りを受けた母校はあえなくバリケード封鎖。「ここは物を作れる場所ではない」と直感した僕は九州に戻り、福岡市の写真家・北島直氏(故人)のもとで3年間、お世話になった。

おかげで、シャッターを押せばなんとか写せるくらいになり、休日になると、気になる建築や人の暮らしをファインダーに収めるようになった。
ちょうど「地方の時代」が叫ばれ始めたころだった。

だが北島氏の事務所が広告写真のスタジオだったこともあり、だんだん居づらくなった僕は、
1973 年、ついに故郷・別府に戻り、外国に行くチャンスをうかいながら印刷会社のカメラマンとしてサラリー生活を始めた。

だがある日、60歳になっても「モダン・タイムス」的ないまの暮らしを続けている自分を想像しで愕然とした。
そこでわずかな給料を握りしめ、カメラをもって街をうろっき始めた。
いま思えば、「地方の時代」というお題目は日本全土に高速道路が張り巡らされ、日本中が均質化するなかで登場した「地方の解体J の過程にすぎなかったのだが、
そのときは、怒りとも呪いともつかない、言いようのない情念が胸中に渦巻いていた。

そんなある日、先輩から姫島(大分県東国東郡)の撮影に誘われ、このとき撮った一枚の写真が、僕の人生を大きく左右することになる。

それは、当時何の変哲もない村の婚礼風景だったが、こうした「人J r ものj「暮らし」こそオマエのライフワークだ!という天啓が聞こえたような気がしたのだ。
時を同じくして、土蔵や民家の妻壁に漆喰で描かれた「鰻絵」や土壁の美に出会い、依頼された撮影旅行の行き帰りの時間に寄り道しながら、

土壁を構成する藁・石灰・糊といった素材や職人の歴史や動線をコツコツとたどるようになった。本格的な旅の始まりだった。

こうして続けた長い旅も、いつしか半世紀近い年月を経た。その問、鰻絵の旅をまとめた『鰻絵放浪記』や、無名の庶民が残した手技の美を巡った『世間遺産放浪記』など数冊を上梓する機会を得たが、日頃の不摂生がたたり、ついに大病を患ってしまった。

そんなこともあって、わが故郷に「高度成長がやって来た昭和J から「バブルが消えた平成」までの庶民の日常風景を撮り続けた写真を、生きているうちにまとめようと思い立った。

ゆえに本写真集に収めた写真は、姫島で撮影した“転機の一枚"をはじめ、主に1960年代の最後あたりから70年代中ごろにかけての古い作品ばかりだ。いま、こうした写真をまとめて披露することにどういう価値があるのか、正直わからない。

だが、親父の口癖ではないけれど、ハンコも写真もネガ。

写真は時代の“陰画"なのだ。少なくとも僕は、めまぐるしい時代の裏側で、置いていかれたモノ、忘れられたモノ、

無名者の営みから生まれて“美しく崩れゆくモノたち"から何かを突きつけられているような気がして、いつも心奪われてきた。
今回も多くの友人知人の方々に支えられて出版の運びとなりました。家族をはじめ、忘羊社の藤村興晴氏にも深く感謝いたします。


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