鏝絵(こてえ)について

鏝絵探索行 沢渡歩
季刊「銀花」1982春より。

昨年、鰻絵の写真を初めて見せていただいた折、撮影者の藤田洋三さんから、一緒に五冊ほどのスクラップブックをお借りした。
その中に幾枚かの新聞の切抜きがあり、そのうちの一枚、昭和五十四年一月二十日付けの大分合同新聞は、鰻絵と藤田さんの仕事を、次のように説明している。「こて絵」とか「しつくい彫刻」と呼ばれるものを知っているだろうか。
昔の土蔵の白壁や商家の戸袋などにしつくいで水などの文字や亀の絵などを細工したもので、民衆芸術ともいえるが、永年、風雨にさらされ、今は消え去ろうとしている。
多種多様の図柄には庶民の生活に結びついた意味があるそうだが、そんな「しつくい彫刻」に魅せられた別府市のカメラマンが県下各地を回って撮影を続けている。
記事の一部をここにわざわざ転記したのは、ほかでもない。乙の記事を読みながら、不思議だな、と感じたことがあるからである。
藤田さんの話によれば、鰻絵は新潟や高知、愛媛などでもわずかに見られるが、大分県下に圧倒的に多く、大分特有のものといっても差し支えないのではないかとのととであった。
だとすれば、大分の地元紙が土地の読者に、知っているだろうか、と問いかけているのはなぜだろう。

そして、二度めに藤田さんに会った折、その点を尋ねてみると、藤田さんの答えは明快だった。
「大分は昔は豊の国と呼ばれ、元来豊かな土地柄なのです。物産も多彩だし、臼杵の石仏に代表されるように文化遺産も豊富で、そういう土地には往々にしてありがちなことだと思うんですが、文化財などに逆に無関心なところがある。
だから、鰻絵のことを知る人も意外なくらい少なく、それで合同新聞の記者は、冒頭でわざわざ問いかけるような形にしたのだと思います」
その話を聞いて、自然に、豊の国の鰻絵というタイトルが頭に浮かび、いくつかの新たな疑問も生まれることになった。
いったい、鰻絵はなぜ大分に多いのだろう。あるいは、なぜ多く残っているのだろう、豊の国ということと、何か関係があるのだろうか。


豊の国に花開いた鰻絵

豊の国のいわれは、鎌倉時代に編纂された『豊後国風土記』によると、今から千六百年ほど前、景行天皇が豊前京都の行宮におられた時、飛来した白鳥が餅となり、芋草(里芋)が繁殖したので、乙の辺りの地をそう名づけたのだと説明される。
元来、産物が豊かな土地であったというととは、このことからも確認できる。
だが、大分の歴史の中で、豊かさを確認できるのは、大友氏がとの地を治めていた時代までである。キリシタン大名である大友氏は、海外との貿易を盛んに行ない、隆盛を成した。
そして、それが、秀吉の時代になると暗転する。
秀吉は、この地に対して、徹底的な分断政策を採った。おそらく、この地の本来的な豊かさを恐れたからであろうと思えるが、その政策は江戸幕府によっても引き継がれ、小藩分立の時代が出現する。
すなわち、大分県管内では、中津、杵築、日出、府内、臼杵、佐伯、竹田、森の八藩のほかに天領、島原領、時枝領、肥後領、延岡領などが犬牙錯綜する乙ととなったのである。
天明三年(一七八三)に、九州各国をめぐった古河古松軒という人ぶんどぶぜん物は、著書『西遊雑記』に「豊後は豊前より大国だというが、風土がおとってよろしくなく、人物、一言語も中国筋よりだいぶ、おとり下国である。中国の商人が宿屋で会うと『もはや日本の地に帰ろう』という」と記している。
また、同書には「白壁の土蔵がほとんど見られない」という記述も見られる。
藤田さんの調べによれば、鍾絵のある建物でいちばん古いものは、江戸末期のものだという。そして多くは、明治時代に建てられたものだそうだ。
そこで、以上のような歴史と照らして、ができる。
一つの仮説を立てること江戸時代、乙の地には頭を押さえる者が多くて、庶民の暮しは楽でなく、あまり自由でもなかった。
それが明治時代に去ると、押えが取れて、家や蔵も競って新築された。
人々のそんな昂揚した気持ちの一つの証が、鰻絵ではないか。鰻絵の絵柄がどれもおおどか在のは、そのせいではなかろうか。
そして、どとの家の鰻絵も、外来者や通行人からよく見える場所にあるという事実も、そんな生立ちのせいではないかと推測される。


鰻絵の技法

鰻絵の技法を確立したのは、伊豆長八という人物だと見られる。伊豆長八の本名は入江長八だが、伊豆の出身なので、その名がある。
江戸末期から明治の中期にかけて活躍した左官で、左甚五郎に比肩する名人であった。したがって、伝記も残されていて、その中で鰻絵の技法が紹介されているので、少し長くなるが、引いてみよう 。
長八さんの家には、鰻が箱に何杯もありました。大きい鰻で、一寸五分から二三寸位までのもので、他は皆細かい鰻ばかりでした。
自分で釘のやうなものを赤めて、それを敵いて栴へてゐました。鰻板は普通の左官のものと大差ないもので、幅は七八寸位、長さは柄を合して一尺一二寸もあったかと思ひます。
漆喰で彫刻ものを作る時には、木で心棒を作って、それに麻を巻きつけました。細い所は、針金に麻を巻いて、漆喰が蕗ちないようにします。
心棒が出来ると、漆喰で下塗りをするのですが、その漆喰いは、石灰に嘱灰を交ぜて、それに麻を細かく切って窃を入れ、ふのり朝鮮布苔の煮汁で、程よく担ね合はしてゐました。ったのり上塗に使ふ漆喰は、窃を一層細かく刻んで、また海苔は布で漉して、勿論、石灰も嫡灰も極く細かいものを使ひました。
玉ひとみ眼は、ガラスの丸くなったものに、中側から墨で踏を入れ、瞳の周囲には金の線を入れて、その中に綿をつめとんで、阪めこみました。人形のやうなものL髪は、漆喰に塗りとみました。
(中略)

それから色ものは、厚く使ふと、色がちっとも冴えません。それで、下地で肉を上げて置いて、その上に彩色します。その肉の盛り上げには、下地に、嘱灰を朝鮮布苔の煮汁でねったノロを塗ります。ノロだけで薄肉の彫刻のやうにもなります。
(中略)

赤には紅殻を使ってゐましたが、これは色が消えません。黄色には黄土を使ひます。水鴻しにした細い粉末の黄土でないふきばいのりと、うまく彩色が出来ません。嘱灰を海苔でねった中へ入れて、適宜な色合にして、それを鍾で塗ります。
朱は丹のやうなものを使ひましたが、漆喰では、朱の色は消えてしまふもので、中々よい色の出ないものです。
(中略)

藍色には、キンベルといふものを使ってゐましたが、とれもうすは悼ずみ下に灰汁止めをします。藍色の淡いのは、灰墨に嘱灰を多くしたノロでねり合すと、浅黄色が出て来ます。
それに群青を少し入れると空色に左ります。また灰墨を普通のノロでねると鼠色に左ります。(芸州堂刊『伊豆長八』より)
との記述の中には、かき灰が幾度も登場する。
かき灰は、文字どおり、かき殻を焼いて作る。
藤田さんは、それが鰻絵が大分に根づいた理由の一つではないか、と推測する。
ことにあらわれる他の素材も、大分では入手しやすいものばかりだというのである。
では、伊豆や江戸で広められた技法が、いちはやく大分にもたらされたのはなぜか。
当時は、瀬戸内の航路が重要な交通路であった。だから、その技法は、江戸から瀬戸内を経て、大分へもたらされたのではなかろうか。
高知、愛媛などにも鰻絵が見られるという事実が、そのことを裏づけているようにも思われる。

おおどかな図柄

ただし、伊豆長八が残した鰻絵は細密画ともいえるもので、西洋のプレスコ画を思わせ、これに対し、豊の国の鰻絵は随分と趣を異にしている。
だが、その違いも、こんな例によって説明できるように思える。山口県下に擬洋風と呼ばれる建築物がいくつも残っているが、それは、明治や大正年聞に横浜や神戸にできた洋館を土地の大工がまねてつくったもので、和洋が混じった、おもしろみのある建物に仕上げられている。施主の好みも色濃く映されていて、個性的なものが多い。
おそらく、豊の国の鰻絵も、同じようにして創り上げられ、豊の国なりに変移していったのではなかろうか。
鰻絵の図柄は、家紋、水や亀などの文字、大黒天、恵比寿、福禄寿、鯉、鳩、鶴、亀、うさぎ、猿、虎などだが、中には、福禄寿の頭を大黒が刈っているといった図柄も見られる。
大津絵に、とれによく似た図柄があるというから、施主か左官のどちらかが京の辺りを旅して大津絵を持ち帰り、それをヒントにして作り上げたものでは・ないかと想像できる。
また、その鰻絵には、ヘアトニックとおぼしきものも描き込まれているから、施主も左官もすすんだ人であったのだろう。
とうもり傘の図柄も興味深い。
藤田さんは、こうもりの図柄の変形ではないかというが、そうだろうか。こうもりは日を嫌う。それは、火を嫌うことに通じるので(豊の国の土蔵の鰻絵の図柄としてはポピュラーな図柄の一つなのだがてそれをしゃれて、当時は目新しかったこうもり傘に変えたのではないだろうか、と藤田さんは言うのである。
しかも、おもしろいことに、こうもり傘は、軒と壁の継ぎ目など、雨漏りのしやすい位置に描かれている。
藤田さんの想像があたっているとすれば、との図柄なんかきわめて意欲的で欲張ったものといわねばならない。
また、ある蔵には、TAの文字が描かれているが、これは英語のイニシャルではなく、ローマ字ではないかと思われる。この蔵のある家が帯万さんというお宅だからである。
ローマ字と鑓絵の技法の結びつき、とれも豊の国の鰻絵ならではのものであろう。そしてまた逆にこの蔵は、この地ではまだローマ字なんでものが珍しかった時期に建てられたものではないか、と推測される。

左官職人の手形

現在、大分には、鰻絵の技法を伝える人は二、三人しか残っていない。藤田さんに同行していただいて、そのうちの一人、犬飼町山内の沓掛均さんを訪ねた。鰻絵とは、左官、つまり作る側にとっては何だったかを知れればと思ったからである。
私たちが訪れた折、沓掛さんは鶴のレリーフを製作中だった。
親類筋の方が「豪勢な家」を新築したので、その白壁にとりつけるのだという。
豪勢な家なので、やはりとのくらいのものはっけないとおかしい、と沓掛さんがすすめたらしい。
沓掛さんによれば、戦後、鰻絵の注文は、全くといっていいほどなくなってしまったそうだ。だが、左官として、自分が塗った壁に何か「手形」を残しておきたい。
だから沓掛さんは、折があれば、過去に自分が手がけた白壁や土蔵のある家を訪ねて、鰻絵をすすめているが……というのである。
福禄寿散髪の図を製作している左官の姿が想像される。
嬉々として、彼は製作を楽しんだにちがいない。
伊豆長八の項で引用したとおり、鍾絵の技法はかなりめんどうなものである。だが、それでも左官たちは、喜んで鰻絵を描いた。鍾絵が、沓掛さんのいう「手形」だったのだとすれば、それも当然だろう。職人が職人として誇りを持てた時代、「手形を残したい」という彼らの希望が、施主側の意向と一緒になって、豊の国・ならではの鰻絵を創り上げたともいえるだろう。
沓掛さんによると、彫刻、すなわち鰻絵は、左官にとっては最も難しい技術の一つなのだそうである。鰻絵ができる人であれば、左官の仕事はすべてができてしまうともいう。
しかし、さきの大戦を契機として、鰻絵の注文は減ってしまい、左官の技術も幅の狭いものになっていった。 だから、沓掛さんは言うのである。
「鑓絵がやれた時代は、今より物は少なかったけど、ほんとうは豊かだったのかもしれませんね。私たち職人が職人として腕をふるえたし、施主の側にも、それを許してくれる余裕があった。特に気持ちの上でね。
豊の国というのは、気持ちの豊かな国と解釈するといいかもしれませんね。そうすれば、うまく鰻絵にくっつきます」
ところで、大分が産業都市として発展しはじめたのは、最近のことである。
戦後もずっと農業県であったといってもいいだろう。戦後の大分県を「日本のスペイン」と評した評論家もいたそうである。
もっとも、土蔵が残り、鰻絵が多く残ったのは、ととによっている。
一つにはそのそういった意味では、豊の国というのは、沓掛さんが言うように「心豊か在国」 と解釈するほうがいいのかもしない。

心豊かな国

心豊かな国の鰻絵
改めて、藤田さんが「泣いてる猫みたいな虎」と評した鰻絵が思い出される。
中国の月に吠える虎をまねたものだと思えるのだが、デッサンがあまり正確ではないので、弱々しく見えるのである。
だが、目には、ちゃんとガラス玉が入れてあり、一生懸命仕事をした左官の仕事ぶりがうかがえる。
竹で作った釣り竿をちゃんと持った、恵比寿や浦島太郎にも出会った。
左官や施主の鼻高々の様子が浮かんでくるようだ。
七福神左ど、鍍絵の図柄は現世利益を願うものが多いが、それを、ポンと人の自にさらしているところがいい。
「陽光も豊かな土地ですからね、住んでる人間もおおらかなんですよ」と、藤田さんは笑っていたが、豊の国の鰻絵のすばらしさは、その点にあると思う。
すでに六年にもわたって、藤田さんが鰻絵の写真を撮り続けているというのも、そこに魅かれているからであろう。
「ゲートポール新聞編集長」というのは、藤田洋三さんの肩書きの一つである。
ご存じのようにゲートポールをする人は、老人が多い。
したがってこの仕事をしていれば、自然に年配の方との交際も増え、埋もれた鰻絵在ども発見できる。藤田さんは、できうるかぎりの努力を払って、鰻絵を撮り続けてきたという。
文化財に指定されているわけでもなく、先に研究した人もいない鰻絵だから、所在を知るだけでも、それだけの努力が必要だったということである。
藤田さんは写真に収め、それを発表するというととで、豊の国の鰻絵にまた別の光をあてているわけだが、藤田さんの仕事ぷりと豊の国の鰻絵を作った左官たちの仕事ぶりには、何か通じ合うものがあるようにも思える。

鰻絵のある土蔵は次々に壊れているというが、製作した左官の心は、形を変えて受け継がれているというととかもしれない。

心豊かな国の鰻絵。春の陽光の中で、もう一度じっくりと眺めてみたい

(筆者は福岡在住、ルボライター)

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